‘神社の歴史や由緒’ カテゴリーのアーカイブ

王神祭のご案内

2024年10月9日 水曜日

10月になり、早いもので今年も残り3か月を切りました。果たして終わるのかと怪しまれた夏の酷暑も最近は落ち着きを見せ、いよいよ秋へ、そして冬へと向かっているのを感じております。

さて、県の無形文化財に指定されている王神祭(11月5日(火)午前10時斎行)まで一か月を切りました。落ち葉掃除と時期が被ってしまうので、なるべく早めに準備を進めています。

また、今年度からコロナ禍によって中断されていた王神祭後の直会を復活いたします。王神祭で神様にご奉納した鮭やお餅を頂くことで我々もそのご神徳を賜るという古くから続いてきたものであり、地元の方たちにとってもとても思い入れのある行事の一環となっております。

一般の方も見学可能ですので、ご興味がある方は社務所までお申し出ください。(増)

春季大祭・神輿渡御祭を斎行しました

2023年4月18日 火曜日

令和5年4月14日、15日にて金峯神社春季大祭を斎行致しました。

金峯神社や氏子地域の皆様にとって、凡そ3年ぶりの通常規模での祭典実行となり、コロナ禍前の姿へと戻ったことで参列者をはじめ足を運んでくださった氏子地域の皆さん、参拝者の皆様にも笑顔がこぼれているように感じられました。

また、4月15日には凡そ5年ぶりとなる神輿渡御祭を執り行うことができました。こちらはコロナ禍になる前から悪天候などにより中止が続いていましたので、かなり久しぶりの斎行となりました。こちらの祭は神職の他に氏子地域の方々に協力していただいて、神輿と共に参進をするというものであり、こちらもお祭りの中でかなり盛り上がってくれました。

このようにお祭りがコロナ前のような形式に戻っていけるように私どもも努力を進め、これらの伝統が途切れないようにしていこうと思う次第です。

こちらは、祭典と神輿渡御の様子です。久しぶりのお神輿に皆さん少し記憶を掘り返しながらも無事終えることができたことをとてもうれしく思います。(増)

井上井月句碑

2017年6月5日 月曜日

近年問い合わせが多い、境内の井上井月の句碑について紹介いたします。

井上井月(いのうえせいげつ文政5年<1822年>? – 明治20年<1887年>)は江戸末期から明治初頭の俳人。越後長岡の生まれと伝えるが、生涯の前半は不明な点が多い。30代半ばより信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた。その作品は、後世の芥川龍之介や種田山頭火などに大きな影響を与えた。

 

句碑にはこう記されています。

行暮し 越路や榾(ほだ)の 遠明り

越路は北陸道の古名。越の国は福井・石川・富山・新潟の諸県だが、ここは井月の出身地新潟県の何処かであろう。歩いて行く途中で日が暮れる心細さ。囲炉裏にくべた薪がとろとろ燃える。榾の火の遠明りが障子越しに見えて懐かしい。一家団欒の日が蘇る。若いころ越路を迷った際の追想か。心細さと懐かしさのない交ぜの句。

 

晩秋から冬にかけて?の雪国の日が落ちる早さや遠くから見える障子越しの明かり。雪国の景色を情景豊かに捉えていると思います。30年ほど前に井月会によって建てられた句碑ですが、近年井月の生涯をテーマにした映画「ほかいびと」や熱心な井上井月ファンの方々の努力のおかげか句碑の問い合わせをいただくようになりました。句碑を通してこの情景を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。(桃)

 

松代藩士の墓

2015年3月22日 日曜日

深く積もった雪もいつの間にか解け、土の匂いも春らしい穏やかな天気が数日続いています。

一の鳥居から出たところ、飛び地境内などといったりしますが、そこにある松代(まつしろ)藩士の墓についてご紹介したいと思います。

戊辰戦争において当時の長岡藩は旧幕府軍を支持し、明治新政府軍と激しく対立し長岡藩周辺で繰り広げられた戦乱を北越戦争といいます。

慶応4年(1868年)5月新政府軍は長岡城を攻略し、城はわずか半日で落城。長岡藩士は栃尾方面へ退却、加茂に集結し再び見附を奪回し、7月に長岡の八丁沖の戦いに甚大な被害を出しつつも勝利し奪還しました。

この墓はこの八丁沖の戦いにおいて蔵王に追い詰められ孤立した新政府軍を支援するため、長岡藩士と戦い命を落とした信州松代藩士14名を弔うために明治元年(1868年)10月に建てられたものです。IMG_2036 IMG_2037

お稲荷さまについて

2012年3月15日 木曜日

全国の神社の中で最も多いと言われている神社をご存知でしょうか?

その神社は生命の活性化を表し災厄を防ぐと言われている赤色の鳥居が目立ち、狛犬ならぬ狛狐が参拝者を見守ってくれています

油揚げを煮てご飯を詰め込んだお寿司もこの神社の名前がついています・・・と記した所で題名に答えが書いてある事に気が付きました

稲荷神社、と言う神社が全国で一番多いと言われております。氏神としての神社はもとより、家の守り神や会社の守り神としての数を含めれば、とても多くの御分霊が総本社である京都の伏見稲荷大社から勧請されているのではないでしょうか

江戸時代の流行り言葉に『火事・喧嘩・伊勢屋・稲荷に犬の糞』とありますが、これは当時江戸の街中で多かったものを羅列しているそうです。江戸と言えば火事に喧嘩に、伊勢屋と名乗る商家にお稲荷さまを祀った場所に犬の落とし物が沢山あった、と言った所でしょうか

『宇迦乃御魂大神(うかのみたまのおおかみ)』を主祭神とし、『佐田彦大神・大宮能売大神・田中大神・四大神』を共に配祀し五柱の神を祀っていますが、これは『稲荷大神』の広大な御神徳を神名化したものだとされています ※神さまの名前(御神名)は、その地域やその時代によって変化する事があります。挙げた御神名は一例ですのでどうか御留意下さい

 

元々は農業の神さまとして信仰されて来ましたが、物事を生み出す生成発展の信仰から商売繁盛の神さまとして信仰されています

稲荷神社のお祭は「初午祭」が有名です。伏見稲荷大社の神さまが三ヶ峯に降り立ったのが和銅四年(711)の旧暦二月の初めての午の日であった事に由来し連綿と祭祀が行われています

様々な祭祀があり、この辺りでは五色の紙札に子どもの名前を書いて心身健全成長を祈願する習わしがありますし、ハロウィン的な要素を含んだ神事が執り行われる所もあります

旧長岡市内では稲荷と名付けられているお社は約12社ありますが、ご家庭や会社の敷地内にあるお社を含めるともっと多いかもしれません

 

余談ですが、狐と言えば油揚げ! と思ってる方も多いと思います(私だけでしょうか?)

狐=油揚げと言うのは、仏教が日本に取り入れられてから出来上がったモノです

インドのダーキニーと言う神さまはジャッカルを眷族としますが、この神さまが稲荷神に習合される様になると稲荷神は狐を眷族とする事になります

ダーキニーを信奉する人たちは当時貴重な栄養源である鼠のフライをお供えしますが、日本の仏教は戒律が厳しく殺生を禁じる宗派が多いので、とても頭を悩ませました

そこで豆腐の油揚げを代わりに・・・と言うのが、狐=油揚げの由来となったそうです(大)